2013年10月25日金曜日

グローバルマッチョ論と教育論

少し前にTwitterで内田樹の租税回避する人、海外に出てゆく人たちの「これから」についてについて呟いた。自分自身が帰国子女で小学校時代をヨーロッパで過ごし、社会人になってから10年、アメリカで仕事をしてきた経験に基づいて言うと、動機付けは異なるが、私もまた子供を海外で学ばせたいと考える親になっている。ただし、それは最近ネットで話題になっているグローバルマッチョ論とも少し違うのでそれについて書きたい。

端的に言うと、子供に外の世界に接して欲しいのは、日本の外には言語も習慣も宗教も、そして考え方も全く異なる人達がいると言う事を肌身を持って実感して欲しいから。その上で、「相手と自分は異なる価値観だが、それでも共存するにはどうしたら良いか?」、を自然に考えられるようになって欲しいからだ。日本は世界でも類を見ないハイコンテキストの文化、「あうんの呼吸」、を良しとする。これが素晴らしいのは間違い無いが、一歩間違えれば異質なものを集団で排除するする事を無意識に行うようになってしまう。自分の常識は相手の常識だと考えるような思考回路は個人的には非常に違和感がある。

ちょうどアメリカ時代からの合氣道仲間であるアメリカ人の友人夫妻が来日しており、家族同士で会う機会があった。彼等は4人の子持ちで一番下の子供が大学に入ったばかり。初めて出会った頃はその子供が今の自分の長男ぐらいだったと言う事を思うと色々と感慨深い。

様々な話題で盛り上がったのだが、その内の一つが子育て。親が子供にしてあげられる事は限られており、そしてその時間も短いと言う話だった。ティーンエージャーになる前までが大事と。彼等が重要視していたのは順不同で1.言語/外の世界との接点、2.Financial Literacy(お金に関する知識)、3.子供が付き合う友人仲間、そして4.道徳観念だった。なるほどである。これを実行するには相当、自分がしっかりしていなくてはならない。真面目にやろうとすれば子育てはなかなか大変だ。2.について、友人夫妻の所では子供が16歳になったら皆、自分でバイトして稼ぐ事をルールとしていたと聞いてへぇーと思った。そう言えば自分がバイトをするようになったのは高校生ぐらいからだったかと思い出す。

海外生活経験があり、英語も話して外資で仕事をしていると言ったら、諸条件的には私もグローバルマッチョに該当するのかもしれない。が、それは結果に過ぎないし、そもそも私は一部の同僚達が持っているような猛烈な肉食と言う空気感は持ち合わせていない。たまたまそのように育ってきて、今度は自分が育てる側にまわると、やはり子供達には処世術の一環として言語やその他、色々と基本的なサバイバルスキルは身に付けて欲しいと考える訳だ。これ、自分の育ちが違っていたら考え方も変わっていたのだろうか。

色々と書いてみたが、答えが出ないと言う事だけがよく分かった。





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