2011年4月19日火曜日

師匠

 久しぶりに合氣道関係の友人と飲む機会があり、色々と盛り上がったのだがその内の話題の一つが師匠だった。武道を志す者にとって師の存在は避けては通れないものだ。師を持たないで一定以上のレベルに達するのは至難の業だと言って良い。武道の場に限らず、ビジネスの場における上司、様々な状況におけるメンターなど、教え導いてくれる存在としての師と言うのが話題の一つだった。

これが最初から最後まで一人の師の下で一つの武芸を学んできたと言うのであれば話は単純だ。が、友人も私も合氣道に限っても複数の師に学んでいる。私の場合、合氣道の師匠と言えばニューヨークで10年間お世話になった方だが、学生時代に基盤を築いてくれた先生は他に2名いる。片や先生、片や師匠、この違いは何なのか。

私が思うに師匠と呼ぶのはその人の教えが自身のコアとなる価値観にまで影響を及ぼすような人の事だ。そこには必然的に畏敬の念が生ずる。以前にも話題にした事だが、私の場合、師と呼ぶ人は3名。大学時代に私の武芸に対する考え方を根底から覆した中国武術の師、NY時代の合氣道の師、そして帰国する前に不思議な形で縁の出来た他武芸の師だ。他にも高校時代に初めて道場の扉をくぐり、蟷螂拳を教えてくれた街道場の先生や、アメリカ時代の数年間学んでいたJKDの先生もいらっしゃる。これに様々なセミナーで教えて頂いた回数を足したら収拾がつかないだろう。

あるレベルから先について師を持つ事の重要性は自身の基軸となる技や哲学に関わって来るのかなとも思った。自分はどの武芸の門人なのかと言う自覚と言っても良い。これが無いと技や流儀のコレクションになってしまい、コレクションとしての価値はともかく技の深さを体得するのは難しい。残念ながらこのようなコレクターの人達にも数多く会ってきた。

難しいのは友人のケースにせよ私のケースにせよ、コアとなる武芸のレベルを上げる為に他の武芸を研究する事は多々あると言う事。それが推奨されている事かと言うとまた難しい所だが、少なくても一つの道場で一つの価値観で純粋培養されるよりは良いかなと個人的には考える。先生との縁、相性、自身の時間や能力など、武芸を学んで行く過程で様々な要素が影響してくるし、何と言っても世界は広い。価値観も当然多様である。

友人は自身の合氣道の位置付けで色々と考える所がある様子。他の流儀に接する機会がある中で師匠と言うキーワードが氣になっている様子だった。私は基本が雑食。そしてこの話題は、こうして素面になってから考えなおしても「これが正解」と言う答えは無い。強いて言えば、私の場合、「天命に沿って歩む者は必要な時に必要な師に出会う」、と言う言葉を信条としている事か。これまで歩んできた自身の人生を振り返ってそう思う。



出展はマンガですけど


私が高校生の頃に読んでいた「拳児」で台湾の蘇崑崙が主人公に言うセリフでした

(そう言えばNYで蘇崑崙のモデルとなった先生の道場に行って稽古した事があったなぁーとここまで来て思い出したり)




(もし良ければ下のリアクションの「いいね!」をクリックして下さい)

4 件のコメント:

  1. そのセリフ、当然読みながら、あ って思いましたよ(笑)

    返信削除
  2. あ って思う所で色々とアレですね(笑)。個人的には「手を出す時、心に情けを残すな。心に情けがある時は手を出すな」、と言うのも好きですけど。 

    返信削除
  3. 私はずーっと1人の師匠に就いていますが、とても他流儀に色気を出せるほどの技術も度胸もありませんねぇ・・・。

    返信削除
  4. 実はこの内容を書いていた時にチャボさんの事が幾度も脳裏によぎったのですよ。このトピックはなかなか落とし所が無くて、でも書きたくなって書いてしまいました。

    あ、でもチャボさんも時々、他流儀の内容を教えたりしていますよね(笑)。

    返信削除